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昭和生まれ 熊本県菊池市在住 暇な日は草刈、読書、ナンプレなど

金曜日の夜の雨

2020.5.15(金) 徒然 39

中学生のころから日記を書いている。
書き始めた動機は国語の時間に「日記を書こう」的な学習をしたからではないか。
近年はコクヨノート「Canpus  B 100枚」1冊が1年分だ。
先日、「思い出の写真」をブログにupするためにアルバムを探していたら「大学3~4年 1980~1982 No10」の日記帳が出てきた!

詳しくは此処では書かない(書けない?!)が、夢か映画の中のような日々を過ごしており「俺も元気だったな」と思う。酒があまり飲めない私が6次会とか行っている日もある。思い出せば1年生の時、部室にあった飲み残しの入った「霧島」を持って帰り、夜一人で飲む練習をしたこともあった。

2011(平成23)年1月8日(土) 奥日向神クライミング
10時キャンプ場集合。泗水から1時間で着く。山は雪が積もり早朝ー6度、昼でも2度の日本中寒い一日ながら道端エリアは暖かかった。
全体的に朝は湿っていたが徐々に乾いて登りやすくなった。
「君のために 5.9」をTr.で2回。3回目はRP。
「ルネッサンス 5.10b」はダメ。
「だんだん 5.9」はTr.で。
「いらっしゃいませ 5.8」はフラッシング。
「太郎 5.10c」はTr.で2回ともダメ。
スラブで右足ふくらはぎ、フェースで右腕三頭筋、全体として腹筋を使った。岩は安山岩。参加者はあそ望会長キーボウさん、ボロさん、フジミさん、マスモさん。マスモさんの友人で福岡の若い人2人。

上記は53歳であそ望山岳会との初めての日向神、17年ぶりの外岩クライミングをした時の日記。自分なりにがんばった様子が分かる。

【2011年1月8日の道端スラブ壁の写真】
まだ上部のルートや左のルートがない。

7年後の2018年に「100イレブン」を達成したが、その時「よく登った記録を取っているもんだ」と感心されたが私にとっては記録を残しておくことは普通の事。一緒に行った方、ビレイをしていただいた方も大事な記録と思っている。

日記以外にこの頃よく付けている記録は「毎朝の体重と体温」で、これは手描きの折れ線グラフにしている。60歳をこえると体重の減少がこわい。
今日はヒマワリの種を2種類買ってきて直播(じかまき)とポットを10個。
YouTubeの「あいみょんBest」にどうして「ひかりもの」が入っていないのか!

今日撮ったギンリョウソウの写真を一枚。トリミングなしがえらい。

けっこう外は降っているなあ・・・。

思い出の写真 9 (36歳、クライマーからランナーへ)

2020.5.10(日) 思い出の写真 No9

1994(平成6)年 36歳
庵鹿川の三澤さんは昔からよく語っていた。
「クライマーには3大障壁がある。1つ目は就職。2つ目は結婚。3つ目は子ども」と。
山ばかり登って仕事も恋もしていないような私であったが30歳の時には3人の子どもがいた。

写真のように「トレラン」は時々やったが、この年からクライミングはすっぱりと止め、家族で行けるマラソン大会にでるようになった。

思い出の写真を最後に3枚載せよう。
当時の愛車、三菱デリカと根子岳。

秋、クレッテル・カメラードは盛大に鍋の平で観月会を行っていた。

阿蘇・高岳鷲ヶ峰に集ったクレッテルの仲間。

それから2011(平成23)年、53歳になった私がクライミングの世界に戻ってくるまで17年の歳月を要した。

思い出の写真 8(33~35歳)

2020.5.10(日) 思い出の写真 No8

1991(平成3)年
正月は宮崎市で迎え、2日は日向市の「尾鈴ロードレース」を走り、美々津海岸「権現岬」で登る。その後、庵鹿川に行ってパートナーを見つけて比叡山で登る。そんな正月の過ごし方が何年か続いた。

権現岬は暖かく、若い人が集まっていた。

8月に熊本市内で「ODCクライミングコンペ」が行われた。大きな倉庫でリードのできる設備は珍しかった。午前中仕事があって見学だけ。

秋に金峰山・二の岳ボルダーへ行った。

数年前にこのボルダーを登ろうと思い出かけていくと、30年たって周りの杉林が伸びて場所が分からなくなっていた。

1992(平成4)年
5月には比叡山「ひむかの黒馬」など。

この頃、クレッテルで「電動ドリル」を購入したので大観峰の岩場にフェースルートを拓きに行くようになった。

1993(平成5)年
5月、雌鉾岳(庵ルート Ⅶ A0)を戸高さんと登った。

雌鉾岳頂上にて。

この年は電動ドリルを担いでよく大観峰へ行って、フェースルートを拓いた。

すてきなシングルライフ(5.9)
リアラ(5.10b)
復活の日(5.10b)
青大将(5.10d)
ヒラクチ(5.10a)
マムシの皮はぎ(5.10c)

これは「復活の日」で、「岩と雪」にも掲載してもらった。
エリアは松村さんの応援を得て第Ⅳエリアまで広がった。
我が青春の大観峰はクラックとフェースの両方を楽しめ、阿蘇五岳をバックに登るロケーションは最高であった。しかし、アプローチの悪さは致命的で訪れるクライマーは本当に少なかった。
※2016年4月の「熊本大地震」で大観峰の岩場は登攀不能になった。

思い出の写真 (30~32歳)

2020.5.10(日) 思い出の写真 No7

1988(昭和63)年
前年、宇土に転勤・引っ越しをしたので近場の黒崎海岸で開拓をした。

これはスクワットの体勢から一気に上のホールドを取るルート。
仕事仲間の若者を誘って通った。

6月には松村さんに「筑紫耶馬渓」を案内していただいた。
あえぎのトラバース(5.10a)

夏は松村さんと「庵・鹿川」を拠点にして比叡山南面スラブで開拓を行った。
グランドアップがお決まりの南面スラブにフレンチ式で拓いたのが「スーパーファイナル」である。

このルートは高難度の割にプロテクションがリングボルト(当時は標準)だったので、2018年(30年ぶり)に松村さんとステンレスにリボルトした。

11月3日、文化の日はよく根子岳に行った。写真は縦走して西峰から。

1988(平成元年)
夏には山口の「陶ヶ岳」に行った。
ホワイトハウス(5.11b)を登る松村さん。

松村さんとは行縢山でルート開拓を行った。

行縢山駐車場にテントを張っての焚火。
最高に楽しい時だった。

1990(平成2)年
5月に「第1回九州ロッククライミング大会in比叡」が開催された。

優勝は寺島由彦氏か。ルートの大きさとハングには驚かされた。
私はBクラスで予選落ち。

夏には行縢山・奥壁でのルート開拓が終わった。
「アロマージュ Ⅵ級A0 4P 110m」である。
写真は4P目をトップで開拓中の松村さん。

残念ながらこのあと右から伸びていた「クレッテルルート」に合流してしまった。未発表なので誰も知らないルートで終わった。

思い出の写真 (29歳のころ)

2020.5.10(日) 思い出の写真 No6

1987(昭和62)年
4月、雌鉾岳で1年前に開拓された「四月の風」を登った。

7ピッチ目のリード。
「ライン取りの秀逸さと難度の高さを併せ持った雌鉾岳スラブを代表する好ルート」と「ガイドブック:宮崎の岩場」でも紹介されている。このエリアで一番面白いルートだと思う。

6月、比叡山の鳥居のボルダーで「ボルダリングコンペ」が行われた。
ボルダリングといっても大きい岩はトップロープである。

Bクラスで3位に入賞し、賞品はフレンズだった。

夏はクレッテルの祖母山:奥岳渓谷沢登り合宿に参加。
川上本谷やウラ谷を登った。

宝満山「稚児落としの岩場」は松村・友栗氏と。

秋の大崩山「硯岩 中央ルート」は徳留くんと。
この年、三沢・工藤氏によって拓かれたばかりのルートだった。

暮れに松村・徳留氏と「伊豆・城ケ崎」へ車で行った。
パープルチャイルド(5.11-)はTr.で。

有名な「悟空ハング」に下がる徳留くん。足が長い。

デルトイド(5.11)を登る有名なO夫婦の派手なタイツはお揃いか。

思い出の写真 (27歳~28歳)

2020.5.10(日) 思い出の写真 No5

1985(昭和60)年
2月に阿蘇高岳で赤谷~頂上を3人でめざして遭難騒ぎを起こした。ケガはなかったが下山が夜中になってしまった。小さなミスが重なると大きな事故につながることを学んだ。

夏前に日向神正面壁の八女ルート、鵬翔ルートで人工登攀の練習を積んだ。
8月、「南ア:甲斐駒ケ岳 赤石沢Aフランケ~赤蜘蛛・奥壁左ルンゼ」を登った。

恐竜カンテの人工登攀
山を下りると自衛隊の車両がたくさん集まっていた。その時、初めて「御巣鷹山に全日空機が墜落」した事件を知った。

1986(昭和61)年
この冬も高岳にはよく通った。

ダイレクト尾根の背後には鷲ヶ峰の九州離れした景色が広がる。
そんなある日、仙酔峡からの帰り道に乗っていた車が雪でスリップして谷に突っ込む寸前に横転、一命を取り留める事故に遭った。

夏は奥秩父:小川山に一人で乗り込んだ。

写真はクラックルートのカサブランカ(5.10a)である。
当時の一流クライマーは、夏は小川山、冬は城ケ崎で登っていた。
小川山にはクライミング雑誌に登場する有名人がたくさんいて、もうそれだけで楽しかった。

比叡山ではクレッテルカメラードの「ファイナルスラブ開拓」に携わった。

このころは大観峰でのクラックルート開拓は終わりを迎え、菊鹿町の丸岩で開拓を始めていた。

登っているのは松村さん

年末は「北ア:北鎌尾根~槍ヶ岳」に参加した。

北鎌尾根のP4に達したところで遭難事故が2件発生していた。数日間、天候の回復を待ってヘリコプターに怪我した人をピックアップしてもらったところで時間切れ下山となった。
幾つかの事故を身近に感じ、この後、雪山に行くことはほとんどなくなった。

 

思い出の写真(24~26歳の頃)

2020.5.9(土) 思い出の写真 No4

1982(昭和57)年
大学を卒業した年の秋、社会人山岳会「熊本クレッテル・カメラード」に入会した。
この年、クレッテルは熊本の山岳会としては初めての「ヒマラヤ未踏峰」への遠征を敢行している。
1983(昭和58)年
この年からクレッテルの仲間と「阿蘇北外輪・大観峰の岩場」に行くようになった。

クラックにカム(フレンズ)を使って登り、終了点はリングボルトを2個打って完成という簡単な開拓だったが「一日1本」開拓ができる新しい岩場だった。これからの数年間、私は幸せな時を大観峰の岩場で過ごすことができた。
しかし、比叡山や日向神峡、大分等に行くことはほとんどなくなり、フリークライミングに関しては「井の中の蛙、大海を知らず」状態に陥ってしまった。

憧れだった「北ア:北鎌尾根~槍ヶ岳~滝谷」を登る機会を得た。

ここは北鎌尾根(独標の頭)である。


大キレットを越えて滝谷(ドーム中央稜)でも登った。
その後は単独で八ヶ岳南部を縦走した。

秋には「第38回 群馬国体山岳競技」に選手で参加した。

1チーム(3人)で「登攀・縦走・踏査」の3種目をこなす。ワンゲル部で培った「天気図つけ・屋根型テント立て」の技術も生かされた。国体後は秋枯れの「尾瀬」を堪能した。翌年の「第39回 奈良国体」も参加した。

1984(昭和59)年
冬季は近場の阿蘇高岳鷲ヶ峰「赤谷」へよく行った。

大滝は多くのクライマーで賑わっていた。
鷲ヶ峰の第1キレット付近の斜面でビバーク訓練をして、一夜を明かしたこともある。

八方ヶ岳:穴川の岩場でルート開拓をした。
2ピッチ目からフリーで行けなくなり断念した。
岩場までのアプローチがひどすぎた。

比叡山で「池田功:クライミング講習会」があった。

右のタイツ姿は中山良朗氏である。
「岩雪」の表紙を飾っていた池田氏のクライミングに驚かされた。

クレッテルカメラードでは熊本城の石垣掃除を年に1回行っていた。

このころ熊本県警の山岳救助隊に委嘱された。
12月に初めて「根子岳・地獄谷」での救助活動に参加した。
徹夜での救助活動は貴重な体験となった。

思い出の写真(大学4年 山岳部へ)

2020.5.5(火) 思い出の写真 No3

だいたい大学の部活動は4年生になると引退して後輩に後を託す。ワンゲル部の春合宿に参加することなく、暇だった私は一人で祖母山のウルシワ谷を登り、大障子の縦走などをやっていた。
そこへ山岳部のT君が「比叡山で登りませんか」と声をかけてきた。
2年生の頃、山岳部に連れられて「双石山ルンゼルート」を登り大きな感動を覚えていた私はすぐ話に乗った。双石山の「象の墓場」で簡単な練習をした後、いざ、比叡山へ向かった。
一回目は比叡山南面の定番「第1スラブと第2スラブ」
4月にもう一回行って、「ニードル左岩稜とTAカンテ」

これはニードルの頭から懸垂下降したところ。
シューズは運動靴、下降器はなく「肩がらみ懸垂」、ヘルメットはクライミング用か?
この後、私はワンゲル部に籍を残したまま山岳部に入部した。
この頃は山岳部も全部で10人近くに増えていた。

夏前に双石山で50㎏ボッカ訓練(T君と私以外はバタバタと倒れて行った!)を経て、夏合宿は「剣沢定着~槍・穂高縦走 17日間」だった。

これは剣沢雪渓での「滑落停止訓練」の様子。
八ツ峯や源次郎尾根を登り、初めて「シャリバテ」の経験もした。
最後は涸沢でみんなと別れ、私は単独でジャンダルムを越え、西穂高の縦走で締めくくった。

休みの日は双石山(ぼろいしやま)で練習した。

写真はアブミを使った人工登攀の練習。
「象の墓場」と呼ばれるこの岩場は面白い所だった。

秋には大崩山の広タキスラブや小積ダキ南壁(人工ルート)へ行った。

広タキスラブでリード中、この後5mほど滑落した。
こんなスラブもまだ底の薄い運動靴で登っていた。この落ちたシーンを後ろにいた九大山岳部のK1さんに見られ、今でも誰彼に「広タキですべった」と吹聴するので困っている。彼はクライミングシューズだったのではないか?

冬前に40㎏のアイゼンボッカ訓練。
冬合宿は「北ア:横尾尾根から槍ヶ岳」だった。

中央に槍ヶ岳が見える。
合宿後は単独で中央アルプスに向かい、宝剣~駒ヶ岳を歩いた。
この時初めて雪洞での単独ビバークを体験した。
合宿後の単独行動はなおらない。

大学最後の春合宿は「北ア:東鎌尾根~槍ヶ岳」だった。

これは西岳ヒュッテの冬季小屋を掘り出しているところ。
2時間かけて掘ったのに、中は極寒だった。

快晴の槍ヶ岳山頂。(右端が私)

この後、T君と私は二人で大キレットを越え、北穂高岳山頂あたりでビバークして涸沢岳から新穂高に下った。稜線歩きも寝不足でフラフラして、これは今思ってもかなり危なかった山行である。
T君はその後、フリークライマーから渓流釣り師、そしてマラソンランナーとなった。福岡国際マラソンでも活躍し、川内優輝選手が出るまでは「日本一速い公務員ランナー」だったのではないか。

これは大学卒業式の時の写真。

靴は「ローバーチベッタ:重登山靴」、ズボンは5年はいてつぎはぎだらけになったニッカーボッカー、シャツはワンゲル部のユニフォーム、そして首に巻いた赤いバンダナが泣ける。(精一杯のおしゃれか?)
私にとっては大学の卒業というより、ワンゲル部と山岳部の卒業だった。
翌日の宮崎日日新聞には「山帰りの卒業生もいた」と紹介された。

思い出の写真 (大学1~3年)

2020.5.4(月) 思い出の写真 No2

高校~浪人中に九州の主な山は登った。
九重山、霧島連山、祖母・傾、市房山、根子岳等に登り一端の「単独行者」の自信を持っていた。しかし、近道と思った岩場で落ちそうになったり雪の大崩山でビバークしたりと危ない経験もして単独の限界を感じていた。また、小説「単独行」や北杜夫の「ドクトルマンボウ青春記」を読んで北アルプスに行く夢を持っていた。

1978(昭和53)年4月、宮崎大学教育学部入学。
ちょっと怖い「山岳部」を覗くと暗い部屋に部員は2~3名だった。
ちょっとチャラい「ワンダーフォーゲル部」は生協の前でたくさんの男女が新人勧誘のダンスを踊っていた。そして「夏は北アルプスに行きますよ~」という先輩女子の言葉を聞いて即ワンゲル部に入部した。
ここから私の楽しすぎる学生生活は始まった。
だいたいチャラいと思われたワンゲル部だが、普段はどんな活動をしているのだろうか。
ずばり、「トレーニング」である。
部室のある農学部から平和台公園まで駆け上がり、腹筋、背筋、腕立て、スクワット、階段ダッシュなどなど。初めての部活の翌日は起き上がれないほどの筋肉痛に襲われた。おかげで20数名いた新人はあっという間に半分に減った。
夏や冬の合宿前は鰐塚山で40㎏のボッカトレーニングも行った。
大学の1年間の充実度は社会人になってからの10年間分に匹敵するほどだ。

学生時代の「思い出の写真」はたくさんありすぎて選ぶのに困った。

南アルプスでの合宿(大学1年)
特大キスリングの上に鎮座しているのは「羽釜」だ。
南アルプス南部の縦走~高ボッチ高原~後立山連峰縦走、最後は一人で憧れの徳本峠から上高地へ入った。


1年の春休みには台湾一周の一人旅。
みんな本当に親日的で、現地で知り合った方の家に何回も泊めていただいた。
これもワンゲル活動の一環。


北アルプス:槍・穂高縦走(大学2年)
撮影場所は云わずと知れた大キレットの手前。この山行は初のリーダーを務め、「お山の大将」的な一番のお気に入りの写真だ。
この夏は、南アルプス北部縦走~槍・穂高縦走、最後は一人で青木ヶ原樹海から富士山頂を目指したが悪天候で断念、富士急ハイランドに転進した。


九重:大船山(大学3年)
「九州合同ワンデリング」という九州中の各大学ワンダーフォーゲル部員が一堂に集まる催し物がある。筑紫女学院、尚絅短大など女子だけの部もあり心がときめいた。(後列左から4人目が私) 夜はテントで山の歌を歌い、集いのゲームをした。ゲームに負けるとロウソクのススを顔に塗られ、朝になるとみんな真っ黒の顔でテントから這い出してきた。


北海道:十勝・大雪縦走 (大学3年)
夏合宿を北ア:針の木大雪渓・槍縦走で行い、その後美ヶ原に部員全員集合、メンバーを組み替えて北海道にフェリーで渡り、最後は一人で知床:羅臼岳にも登った。楽しい1ヶ月だった。

冬山は宮大ワンゲル部としてはまだ黎明期であり、四国:石鎚山(1年)、木曽:御嶽山(2年)、南ア:鳳凰三山(3年)と徐々にレベルアップしていった。

思い出の写真(十代の頃)

2020.5.3(日) 思い出の写真 No1

初めての登山は中学生の時。
小学校時代の同級生・担任の先生と鞍岳に登った。
高校生になり、卓球部を辞めた後は時々地元の鞍岳や八方ヶ岳に一人で登った。
高校2年生の時、父が中古のカメラ(ヤシカ:エレクトロ35)をもらってきて、私にくれた。
それ以来、カメラは私の山行に欠かせないものになった。

鞍岳山頂にて(高校2年) モノクロ写真が泣かせる。
鞍岳は我が家の窓からも望める故郷の山。


九重山:白口岳山頂(高校2年)
なんと自転車で牧ノ戸峠まで行った。


熊本と大分の県境:兵戸峠(浪人中)
自転車で万年山をめざす2泊3日の山旅。


大分県:万年山山頂 後ろは九重連山
靴はキャラバンシューズ。ズボンは父のスラックスを改良した私の手縫いニッカーボッカー。


九州横断道路:三股山の近くにて
キャリーボーンを背負い単車に乗って、由布岳と鶴見岳に登った。


祖母・傾山の縦走(2泊3日)
一人で傾山の避難小屋に泊まるのはちょっと怖かった。

当時の愛用ガイドブックはこれ。

しんつくし山岳会:立石敏雄著「九州の山」である。
表紙裏にある高度別山の絵を登るたびに塗っていくのが楽しみだった。
本がきれいなのは2冊目だから。
下は同じしんつくし山岳会が出した「写真で見る 九州の山」3500部限定本。