「思い出の写真」カテゴリーアーカイブ

世界陸上と言えば

2025.9.19(金) 思い出の写真12 ガーデニング19

昨夜は世界陸上東京大会、女子5000m予選などを観た。

TVの画像から

序盤は山本有真と田中希実が先頭を引っ張り気持ちを見せた。
欲を言えば山本の泣きそうな顔で走る姿が見たかった。(サングラスで見えなかった)

世界陸上と言えば、1991年(34年前)の東京大会男子マラソンを思い出す。(この話は以前にも書いたかな? 歳を取ると何回も同じ話をする)

ネットの画像から

谷口浩美(旭化成)が残り3キロの上り坂でスパート! 見事に後続を引き離し日本唯一の金メダルを獲得した。
当時33歳の私はマラソンを始めたばかりだったが、坂を駆け上る谷口の鬼のような形相からそのきつさがよく分かった。
テレビ画面を正座をして観ながら涙が流れた。

マラソン大会で最後のきつい時、「なんだこんな足の痛み、谷口はもっときつかったんだぞ!」といつも思いながら走っていた。

雨の杖立温泉マラソン(30代前半、初めての20km)

菊池郡市陸上記録会(46歳、1500m)

余談だが私は「谷口浩美」に走りで勝ったことがある。
宮崎:尾鈴ロードレース大会を走った後にリザルト(結果表)をみたら、私の3つ下に「谷口浩美(旭化成)」とあって驚いた。
話のオチは簡単で、当時旭化成に谷口浩美と同姓同名の市民ランナーの方がおられたのだ。

彼岸花が咲き始めた

47歳、クロカン練習中に左ひざを痛めてまったく走ることができなくなった。
その後徐々に山歩きから始め、53歳から山岳会に入り約20年ぶりに山の世界に戻ってきた。

コスモスも咲き始めた。後方は赤い実をつけたヤマボウシ。

私のカメラ遍歴~投稿1000回記念

2025.4.24(木)  思い出の写真10 徒然146

今回のブログで投稿数がちょうど1000回に達した。
2015年11月から投稿を始めて10年、つまり1年間で100回ペースの投稿になる。
なにか記念になる投稿にしようと考えたところ、私にとって「山・車・写真」は三位一体をなしているが、これまでカメラについて紹介したことがなかったので、1000回記念としてカメラを取り上げることにした。
また、3月末に退職して家の片づけをぼちぼち始めたところ、ちょうど中古買い取り業者さんが来られたので昔のパソコン台、ファンヒーター、皮ジャンなどと一緒に使わないカメラも出してしまった。
お世話になったカメラの恩に報いるためにもブログの中に記録しておきたい。

① 高校2年

「ヤシカ エレクトロ35」である。
父が職場から譲り受けてきたもので、我が家で初めてのカメラでもあった。フイルムは手巻きで、レンズは35mmの単焦点だった。画像はフラットで深みはなかったが写りは非常に良かった。難点はけっこう重かったぐらい。
このカメラで撮った写真はカテゴリー「思い出の写真」を参照して欲しい。

② 大学3年

「オリンパス OM10」である。
小型、軽量の一眼レフとして当時の山ヤのベストセラーになったモデルだ。
3年時、リーダーとして夏合宿に行く前に思い切って買った。貧乏学生で長期ローンを組んだのでずっと払い続けた記憶がある。
フイルム代、現像・プリント代も高かったのであまりたくさん写真を撮っていない。

針の木岳から下った黒部湖のテン場、カメラを大事そうに持ってテントの周りをうろうろする私。

北海道:十勝岳にて。こんな斜(はす)に構えた写真が多い。
数日前に信州大学思誠寮で登山靴を盗まれ、ハイキング用を履いている。(ワンゲル時代)

3月の槍ヶ岳山頂。
中古で買った長い望遠レンズなど交換レンズを3本も持って行った。若い時は重さが気にならなかったのだろう。(山岳部時代)

③ 29歳

「CANON EOS 10」である。
EOSシリーズの廉価版で、見た目よりも軽く自動焦点だった。
菊池渓谷で花の写真を撮るために高い純正のマクロレンズなどを買い求め、ポジフィルム(スライド用)を使い始めた。
田舎の写真コンテストで入選したこともあった。

1993年当時の日向神ダム事務所。以前は黒木町の小学校だった。今は取り壊されて公民館になっている。
隣には日向神社がある。
この後、家庭の都合でクライマーからランナーになった。

ご存知、カタクリの花。
30代後半からはネイチャーカメラマンの時代。

④ 44歳

「CANON EOS-kiss3L」である。
ポジとネガ2種類のフィルムを使うためにカメラ2台持ちになった。
レンズは中古のタムロン28-300の超高倍率ズーム。

⑤ 46歳

「CANON PowerShot-Pro1 」である。
一眼レフカメラのレンズをいちいちはめ変えたりレンズの重さやかさばることが気になっていた。
そこでレンズ固定、デジタルカード式、バリアングルも付いて接写もやり易そうなこのカメラを買った。
レンズの赤い帯はCANON高級レンズの証。
ところが接写時のピントが合わせにくいことが後で分かった残念な1台。

学校で「カメラクラブ」を立ち上げた頃の1枚。
ファミリーカメラマンの時代。


⑥ 51歳

「CANON EOSkissX3 」である。
ズームレンズ18-55、55-250の2本がセットだった。
このカメラは丈夫で長持ち(10年間)したが、のちにカメラ内部の小さな黒い点が写りこむようになった。(私以外誰も気付かないような点)

熊本クレッテルカメラードで岩は登らず、熊本城・宇土櫓の武者返しを登っていた。(草取りのボランティア)
ちなみにドイツ語でクレッテルは山岳、カメラードは仲間のことで、カメラとは関係ない。

⑦ 61歳

「CANON EOS-M」である。(現行機)
Mはミラーレスのこと。本体は超小型で、大人の手には小さすぎる感じもする。しかし、一眼レフながらなるべくレンズを交換しないようにするため18~150ズームを選択したので重くなった。
画質はあまり良くないが、取り扱いの良さが気に入っている。

今朝の1枚。

単車に乗らない理由

2025.2.9(日) 山へ行って居りません5 思い出の写真10

昨日、日向神を目指しながら道路の積雪で戻ってきた。
この判断の基準はこれまでの経験によるものだ。
(40年前、凍った路面で滑り、レッカー車のお世話になったことがある)
今日は、似たようなことだが「私が単車に乗らなくなった経験」を記しておこう。

私は高校を卒業して浪人生活に入り、すぐに普通車と自動二輪中型の免許を取得した。

① はみ出し禁止違反で検挙された
免許を取ってすぐ、家にあった中古の125cc単車で阿蘇・大観峰へのドライブに行った。帰り道、前を行く非常に遅い車を下りの直線路で追い抜いたらそこで検問があっていた。夕方5時過ぎで警察の方は机など片づけておられたのに・・・。後日、ここは有名な検問所であることを知った。

【長者原:キャリーボーンに寝袋など積んで由布岳に1泊登山】

② 時速100キロで目に涙
宮崎:一ッ葉海岸の直線道で125cc単車の最高速度を試してみた。なんとか100キロに達したが、ヘルメットの隙間から風が入り涙が横に流れた。映画などでゴーグルもせずにとばすシーンがあるがどうもあれは嘘くさい。

③ 交通違反で免停に
学生時代、私は下駄を愛用していた。その下駄ばきで単車に乗っていたのでお巡りさんに呼び止められた。免許証不携帯やその他の違反の蓄積で免許停止になった。

④ 目立つ単車は白バイにねらわれる
友人が当時有名な「ヤマハRZ350」を買った。大分市に行く用事があったので借りて、安全運転で国道10号線を走っていたらいつのまにか後ろに白バイが付いて来ていた。ほんの少しのスピード違反で御用となった。う~ん。

⑤ 二人乗りでウイリー!
RZ350の持ち主を後ろに乗せ、二人乗りで宮崎:橘通りを走っていた。信号機で停まると、隣車線のそれらしき車が煽ってきた。信号が青になった瞬間、スロットルを開けたら簡単にウイリー状態になり後ろで友人が「やめろー!」と叫んでいた。車には負けたが、無事で良かった。

【1978年 鹿児島:開聞岳に単車で行った】

⑥ 単車で居眠り運転
山の帰りだったかどうか忘れたが、国道10号線を宮崎方面に走っていた。ふと気付くと、なんと「歩道」を走っていた。完全な居眠り運転である。どうやら縁石の隙間を通りぬけて歩道に入ったようで、とにかく無事で良かった。

⑦ 限定解除に失敗
持っている免許は中型なので400ccまでである。1度限定解除の試験を受けにいったが「これは、まあ無理」と思ってあっさり諦めた。

⑧ 岩登りに単車は不向き
若いころ、大観峰の岩場に通っていて、1回だけ単車で行った。その時は前腕が非常に疲れていたのだろう、腕がつって、帰り道で単車のクラッチが握れなくなり本当に困ったし危なかった。クライミングに単車で行ってはいけないと思った。

私の義兄は若いころハーレー(1200cc)に乗っていた。(この年代は車の免許を取ればどんな単車でも運転できた)
しかし単車事故を起こして入院することになり、そこで看護師をしていた私の姉と結ばれた。単車にも一つぐらいは良いことがあるようだ。
私としては大きな事故を起こす前に単車に乗ることを辞めて良かったと今でも思っている。

思い出の写真 9 (36歳、クライマーからランナーへ)

2020.5.10(日) 思い出の写真 No9

1994(平成6)年 36歳
庵鹿川の三澤さんは昔からよく語っていた。
「クライマーには3大障壁がある。1つ目は就職。2つ目は結婚。3つ目は子ども」と。
山ばかり登って仕事も恋もしていないような私であったが30歳の時には3人の子どもがいた。

写真のように「トレラン」は時々やったが、この年からクライミングはすっぱりと止め、家族で行けるマラソン大会にでるようになった。

思い出の写真を最後に3枚載せよう。
当時の愛車、三菱デリカと根子岳。

秋、クレッテル・カメラードは盛大に鍋の平で観月会を行っていた。

阿蘇・高岳鷲ヶ峰に集ったクレッテルの仲間。

それから2011(平成23)年、53歳になった私がクライミングの世界に戻ってくるまで17年の歳月を要した。

思い出の写真 8(33~35歳)

2020.5.10(日) 思い出の写真 No8

1991(平成3)年
正月は宮崎市で迎え、2日は日向市の「尾鈴ロードレース」を走り、美々津海岸「権現岬」で登る。その後、庵鹿川に行ってパートナーを見つけて比叡山で登る。そんな正月の過ごし方が何年か続いた。

権現岬は暖かく、若い人が集まっていた。

8月に熊本市内で「ODCクライミングコンペ」が行われた。大きな倉庫でリードのできる設備は珍しかった。午前中仕事があって見学だけ。

秋に金峰山・二の岳ボルダーへ行った。

数年前にこのボルダーを登ろうと思い出かけていくと、30年たって周りの杉林が伸びて場所が分からなくなっていた。

1992(平成4)年
5月には比叡山「ひむかの黒馬」など。

この頃、クレッテルで「電動ドリル」を購入したので大観峰の岩場にフェースルートを拓きに行くようになった。

1993(平成5)年
5月、雌鉾岳(庵ルート Ⅶ A0)を戸高さんと登った。

雌鉾岳頂上にて。

この年は電動ドリルを担いでよく大観峰へ行って、フェースルートを拓いた。

すてきなシングルライフ(5.9)
リアラ(5.10b)
復活の日(5.10b)
青大将(5.10d)
ヒラクチ(5.10a)
マムシの皮はぎ(5.10c)

これは「復活の日」で、「岩と雪」にも掲載してもらった。
エリアは松村さんの応援を得て第Ⅳエリアまで広がった。
我が青春の大観峰はクラックとフェースの両方を楽しめ、阿蘇五岳をバックに登るロケーションは最高であった。しかし、アプローチの悪さは致命的で訪れるクライマーは本当に少なかった。
※2016年4月の「熊本大地震」で大観峰の岩場は登攀不能になった。

思い出の写真 (30~32歳)

2020.5.10(日) 思い出の写真 No7

1988(昭和63)年
前年、宇土に転勤・引っ越しをしたので近場の黒崎海岸で開拓をした。

これはスクワットの体勢から一気に上のホールドを取るルート。
仕事仲間の若者を誘って通った。

6月には松村さんに「筑紫耶馬渓」を案内していただいた。
あえぎのトラバース(5.10a)

夏は松村さんと「庵・鹿川」を拠点にして比叡山南面スラブで開拓を行った。
グランドアップがお決まりの南面スラブにフレンチ式で拓いたのが「スーパーファイナル」である。

このルートは高難度の割にプロテクションがリングボルト(当時は標準)だったので、2018年(30年ぶり)に松村さんとステンレスにリボルトした。

11月3日、文化の日はよく根子岳に行った。写真は縦走して西峰から。

1988(平成元年)
夏には山口の「陶ヶ岳」に行った。
ホワイトハウス(5.11b)を登る松村さん。

松村さんとは行縢山でルート開拓を行った。

行縢山駐車場にテントを張っての焚火。
最高に楽しい時だった。

1990(平成2)年
5月に「第1回九州ロッククライミング大会in比叡」が開催された。

優勝は寺島由彦氏か。ルートの大きさとハングには驚かされた。
私はBクラスで予選落ち。

夏には行縢山・奥壁でのルート開拓が終わった。
「アロマージュ Ⅵ級A0 4P 110m」である。
写真は4P目をトップで開拓中の松村さん。

残念ながらこのあと右から伸びていた「クレッテルルート」に合流してしまった。未発表なので誰も知らないルートで終わった。

思い出の写真 (29歳のころ)

2020.5.10(日) 思い出の写真 No6

1987(昭和62)年
4月、雌鉾岳で1年前に開拓された「四月の風」を登った。

7ピッチ目のリード。
「ライン取りの秀逸さと難度の高さを併せ持った雌鉾岳スラブを代表する好ルート」と「ガイドブック:宮崎の岩場」でも紹介されている。このエリアで一番面白いルートだと思う。

6月、比叡山の鳥居のボルダーで「ボルダリングコンペ」が行われた。
ボルダリングといっても大きい岩はトップロープである。

Bクラスで3位に入賞し、賞品はフレンズだった。

夏はクレッテルの祖母山:奥岳渓谷沢登り合宿に参加。
川上本谷やウラ谷を登った。

宝満山「稚児落としの岩場」は松村・友栗氏と。

秋の大崩山「硯岩 中央ルート」は徳留くんと。
この年、三沢・工藤氏によって拓かれたばかりのルートだった。

暮れに松村・徳留氏と「伊豆・城ケ崎」へ車で行った。
パープルチャイルド(5.11-)はTr.で。

有名な「悟空ハング」に下がる徳留くん。足が長い。

デルトイド(5.11)を登る有名なO夫婦の派手なタイツはお揃いか。

思い出の写真 (27歳~28歳)

2020.5.10(日) 思い出の写真 No5

1985(昭和60)年
2月に阿蘇高岳で赤谷~頂上を3人でめざして遭難騒ぎを起こした。ケガはなかったが下山が夜中になってしまった。小さなミスが重なると大きな事故につながることを学んだ。

夏前に日向神正面壁の八女ルート、鵬翔ルートで人工登攀の練習を積んだ。
8月、「南ア:甲斐駒ケ岳 赤石沢Aフランケ~赤蜘蛛・奥壁左ルンゼ」を登った。

恐竜カンテの人工登攀
山を下りると自衛隊の車両がたくさん集まっていた。その時、初めて「御巣鷹山に全日空機が墜落」した事件を知った。

1986(昭和61)年
この冬も高岳にはよく通った。

ダイレクト尾根の背後には鷲ヶ峰の九州離れした景色が広がる。
そんなある日、仙酔峡からの帰り道に乗っていた車が雪でスリップして谷に突っ込む寸前に横転、一命を取り留める事故に遭った。

夏は奥秩父:小川山に一人で乗り込んだ。

写真はクラックルートのカサブランカ(5.10a)である。
当時の一流クライマーは、夏は小川山、冬は城ケ崎で登っていた。
小川山にはクライミング雑誌に登場する有名人がたくさんいて、もうそれだけで楽しかった。

比叡山ではクレッテルカメラードの「ファイナルスラブ開拓」に携わった。

このころは大観峰でのクラックルート開拓は終わりを迎え、菊鹿町の丸岩で開拓を始めていた。

登っているのは松村さん

年末は「北ア:北鎌尾根~槍ヶ岳」に参加した。

北鎌尾根のP4に達したところで遭難事故が2件発生していた。数日間、天候の回復を待ってヘリコプターに怪我した人をピックアップしてもらったところで時間切れ下山となった。
幾つかの事故を身近に感じ、この後、雪山に行くことはほとんどなくなった。

 

思い出の写真(24~26歳の頃)

2020.5.9(土) 思い出の写真 No4

1982(昭和57)年
大学を卒業した年の秋、社会人山岳会「熊本クレッテル・カメラード」に入会した。
この年、クレッテルは熊本の山岳会としては初めての「ヒマラヤ未踏峰」への遠征を敢行している。
1983(昭和58)年
この年からクレッテルの仲間と「阿蘇北外輪・大観峰の岩場」に行くようになった。

クラックにカム(フレンズ)を使って登り、終了点はリングボルトを2個打って完成という簡単な開拓だったが「一日1本」開拓ができる新しい岩場だった。これからの数年間、私は幸せな時を大観峰の岩場で過ごすことができた。
しかし、比叡山や日向神峡、大分等に行くことはほとんどなくなり、フリークライミングに関しては「井の中の蛙、大海を知らず」状態に陥ってしまった。

憧れだった「北ア:北鎌尾根~槍ヶ岳~滝谷」を登る機会を得た。

ここは北鎌尾根(独標の頭)である。


大キレットを越えて滝谷(ドーム中央稜)でも登った。
その後は単独で八ヶ岳南部を縦走した。

秋には「第38回 群馬国体山岳競技」に選手で参加した。

1チーム(3人)で「登攀・縦走・踏査」の3種目をこなす。ワンゲル部で培った「天気図つけ・屋根型テント立て」の技術も生かされた。国体後は秋枯れの「尾瀬」を堪能した。翌年の「第39回 奈良国体」も参加した。

1984(昭和59)年
冬季は近場の阿蘇高岳鷲ヶ峰「赤谷」へよく行った。

大滝は多くのクライマーで賑わっていた。
鷲ヶ峰の第1キレット付近の斜面でビバーク訓練をして、一夜を明かしたこともある。

八方ヶ岳:穴川の岩場でルート開拓をした。
2ピッチ目からフリーで行けなくなり断念した。
岩場までのアプローチがひどすぎた。

比叡山で「池田功:クライミング講習会」があった。

右のタイツ姿は中山良朗氏である。
「岩雪」の表紙を飾っていた池田氏のクライミングに驚かされた。

クレッテルカメラードでは熊本城の石垣掃除を年に1回行っていた。

このころ熊本県警の山岳救助隊に委嘱された。
12月に初めて「根子岳・地獄谷」での救助活動に参加した。
徹夜での救助活動は貴重な体験となった。

思い出の写真(大学4年 山岳部へ)

2020.5.5(火) 思い出の写真 No3

だいたい大学の部活動は4年生になると引退して後輩に後を託す。ワンゲル部の春合宿に参加することなく、暇だった私は一人で祖母山のウルシワ谷を登り、大障子の縦走などをやっていた。
そこへ山岳部のT君が「比叡山で登りませんか」と声をかけてきた。
2年生の頃、山岳部に連れられて「双石山ルンゼルート」を登り大きな感動を覚えていた私はすぐ話に乗った。双石山の「象の墓場」で簡単な練習をした後、いざ、比叡山へ向かった。
一回目は比叡山南面の定番「第1スラブと第2スラブ」
4月にもう一回行って、「ニードル左岩稜とTAカンテ」

これはニードルの頭から懸垂下降したところ。
シューズは運動靴、下降器はなく「肩がらみ懸垂」、ヘルメットはクライミング用か?
この後、私はワンゲル部に籍を残したまま山岳部に入部した。
この頃は山岳部も全部で10人近くに増えていた。

夏前に双石山で50㎏ボッカ訓練(T君と私以外はバタバタと倒れて行った!)を経て、夏合宿は「剣沢定着~槍・穂高縦走 17日間」だった。

これは剣沢雪渓での「滑落停止訓練」の様子。
八ツ峯や源次郎尾根を登り、初めて「シャリバテ」の経験もした。
最後は涸沢でみんなと別れ、私は単独でジャンダルムを越え、西穂高の縦走で締めくくった。

休みの日は双石山(ぼろいしやま)で練習した。

写真はアブミを使った人工登攀の練習。
「象の墓場」と呼ばれるこの岩場は面白い所だった。

秋には大崩山の広タキスラブや小積ダキ南壁(人工ルート)へ行った。

広タキスラブでリード中、この後5mほど滑落した。
こんなスラブもまだ底の薄い運動靴で登っていた。この落ちたシーンを後ろにいた九大山岳部のK1さんに見られ、今でも誰彼に「広タキですべった」と吹聴するので困っている。彼はクライミングシューズだったのではないか?

冬前に40㎏のアイゼンボッカ訓練。
冬合宿は「北ア:横尾尾根から槍ヶ岳」だった。

中央に槍ヶ岳が見える。
合宿後は単独で中央アルプスに向かい、宝剣~駒ヶ岳を歩いた。
この時初めて雪洞での単独ビバークを体験した。
合宿後の単独行動はなおらない。

大学最後の春合宿は「北ア:東鎌尾根~槍ヶ岳」だった。

これは西岳ヒュッテの冬季小屋を掘り出しているところ。
2時間かけて掘ったのに、中は極寒だった。

快晴の槍ヶ岳山頂。(右端が私)

この後、T君と私は二人で大キレットを越え、北穂高岳山頂あたりでビバークして涸沢岳から新穂高に下った。稜線歩きも寝不足でフラフラして、これは今思ってもかなり危なかった山行である。
T君はその後、フリークライマーから渓流釣り師、そしてマラソンランナーとなった。福岡国際マラソンでも活躍し、川内優輝選手が出るまでは「日本一速い公務員ランナー」だったのではないか。

これは大学卒業式の時の写真。

靴は「ローバーチベッタ:重登山靴」、ズボンは5年はいてつぎはぎだらけになったニッカーボッカー、シャツはワンゲル部のユニフォーム、そして首に巻いた赤いバンダナが泣ける。(精一杯のおしゃれか?)
私にとっては大学の卒業というより、ワンゲル部と山岳部の卒業だった。
翌日の宮崎日日新聞には「山帰りの卒業生もいた」と紹介された。