2018.1.6 比叡山リボルト作業
【これまでの経過】
1986年(32年前の夏)
私は当時所属していた熊本クレッテルカメラードの一員として、比叡山のⅠ峰南面「ファイナルスラブ(Ⅵ)」の開拓に携わった。当時の南面では最高のグレードであったと思う。
ところが、技術はなかったが情熱はあった若かりし日の私はその一ヶ月前に単身奥秩父の小川山に乗り込んでいた。そこでは当時の日本最先端の岩場やクライミングに触れることができた。
当時の比叡山はグランドアップによるルート開拓が標準であった。その開拓には崇高な理念と面白みがあるのだろうが、私は「グランドアップで拓いたルートには自ずと限界がある」と思った。
1988年
私は松村史也さん(エルム山の会)と二人で比叡山の掟破り、上からぶら下がってボルトを打つ(フレンチスタイル)やり方でファイナルスラブの右横に「スーパーファイナル(Ⅶ-)」を開拓した。コンセプトは「下からは拓けないルート」であった。
その後
私と松村さんはクライミングから遠ざかっていった。
ファイナルスラブは近年ステンレスボルトにリボルトされたが、スーパーファイナルはその困難さやルートの位置から省みられることはあまりなかったようだ。
2017年4月
あそ望山岳会でクライミングに復帰した私は南面のルートを登った帰りに「スーパー」を登る事を思いついた。今でも登れるのか?
1ピン目(アルミハンガー)までのムーブは体が覚えていてスムーズに行けた。
しかし、核心部になるとプロテクションは錆びて楕円形に伸びたリングボルトであり、しかも5.11程度の力が要求されて敢え無く断念した。
「ファイナル」を登ってクイックドローは回収した。
伸びたリングボルトや残置された敗退ビナからこれまでこのルートにとりついた多くのクライマーの恨み節が聞こえるようだった。
2018年1月6日
山嶺山の会でクライミングに復帰した松村さんと私は「スーパー」のリボルト作業に着手した。下の写真は準備物である。
【作業】
①「ファイナルスラブ」を登って1P目終了点に達する。
②「スーパーファイナル」の終了点を新たに設置する。
③上から下がってステンレスのボルト・ハンガーを設置。
④リードで登り、完成。
予想以上に作業は早く進み、一日で終了した。
プロテクションはステンレスボルト(直径10mm)7本、アルミハンガー2本(下部)、ハーケン1本の合計10本である。
終了点はチェーン2本とカラビナ2枚で、ダブルロープで懸垂は容易だ。
懸案のグレードは私の体感では5.11aであるが、翌日登った「ナックルフェイス・FYKルート 5.10c」を比叡山スラブの基準とすると「5.10d」としたい。
夜は「庵・鹿川」に投宿。
三澤さんに「オガタくんて。君はいったい今まで何をしとったんだね! この田吾作がー!」と10回ぐらい怒鳴られて気持ちよく眠れた。