梅雨入り前の日向神クライム

2020.5.30(土) 日向神:ダム下~トンネルエリア

現在は31日の午前5時、Uruさんのすてきな歌声を聴きながらこのブログを書いている。窓の外から小さな雨音も聞こえる。
早起きの原因は1週間前の「親知らず抜歯」によるジ~ンとする左下アギトの疼きだ。

30日(土)は一人で日向神を目指した。山友の多くはまだ自粛継続中なのだろうか。もうすぐ梅雨入りしそうなので私はどうしても岩を触りたかった。
日向神「ダム下エリア」に着いても今特にやりたいプロジェクトはない。
初夏を迎えてにょきにょき生えてきた茨(いばら)を切るぐらいか。
とりあえず、「象の目」終了点にロープを架けて右下のスラブから登るルートの掃除をした。

ボルト3本、5.10a/bぐらいのルートになりそうだがどうしたものか。
意外と大きな木の根でプロテクションを取って右上に抜けた方がマルチっぽくて面白いかもしれない。
空はどんよりしてアギトは痛むのでモチベーションが上がらない。
正午を過ぎ、人恋しくなって移動した。

トンネルエリアにHさんらがおられたので加てていただいた。
①うし子(5.11b) リピート
なんとか登り切れたがこれでアップはきつい。
②コブラ(5.12a) トップロープ
核心部のボルトが遠く、リードする気持ちにはならない。
③シャオロン(5.11b) リピート
5年ぶりに登ったがこれは超お買い得ルート、写真映えもする。(Nさん撮影)

④ダイアナゴル(5.11a) NG
以前に登った覚えがあったので気楽に取り付いたら最上部でミスった。
⑤ダイアナゴル(5.11a) リピート
落ち着いて登れば問題はない。④のミスは歯痛のせいにしておこう。
5年前の日記を見直したら「ダイアナゴル(5.10b) マスターオンサイト、けっこう難」と書いていた。5年間でグレードはアップして実力はダウンしたか。

駐車場で見つけたが名前が分からない。

羽を広げてとまっているのでミスジチョウの仲間か?

県体壁の再開に寄せて

2020.5.28(木) 徒然 No41

昨夜、県体壁のクライミングを楽しんだ。
①中:赤テープ(5.10a) R(リピート)
②左:黄緑(5.11b) NG
③左:黄緑(5.11b) RP
④右:黄色(5.10d) R(リピート)
4本登って十分堪能、早めに帰った。
長い新型コロナによる閉館・自粛期間で、若い方々は実力が多少落ちているようだがもともとあまり伸びていない私にはあまり関係ないようだ。

このブログ「山へ行って居ります」も一時は「山へ行って居りません」なんてタイトルに変更しようとした時期もあった。しかしちょっと思い直して「思い出の写真」として昔の山行を掲載することで自分自身の振り返りができた。
ついでに約2年間ほどほったらかしにしていた写真アルバムもプリントしたものを貼って気になっていたことを一つ片づけることができた。

今日、小山田大氏のFBで彼のクライマーとしての信念が語られていたものを読んだ。ここではコメントを避けるが「いいね」を押した。願わくば何の気兼ねなしにクライミングを楽しめる日常が戻って欲しい。

このブログを書きながらYouTubeで「Uru」という女性の歌を聴いている。こんな気持ちの良い歌声は初めてだ。このアルバムで初めて知った曲もあり、オリジナルの歌手で聴いてみたがう~ん、Uruさんの歌声の方が私には合う。

山のブログはまだ書きにくいのでカテゴリー「徒然」のお題を幾つか考えた。
①ロードスターで通勤、あるある10選
②特集「ひかえめで芯の強い人」のうさん臭さ
③抜歯、その後
④「あと40年生きるのは強欲」発言に対して
⑤第3の出会いを待つ日々
⑥私の武勇伝
⑦これまでの不思議体験
⑧私の健康法
⑨「正しい道ではなく楽しい道を選ぶ」とは
⑩10万円の使い方
⑪なんちゃってキャンパーになりたい
・・・どれも日の目を見そうにない。

先日ドライブをして素敵な場所を見つけた。

来年の植木市ではシャクナゲを買おうとすぐ思う。

人生、初抜歯

2020.5.22(金)  徒然 40

左下の奥歯で、「親知らず」の手前の臼歯が虫歯になった。
治療も終わりがけだが、隣の「親知らず」も虫歯になりそうだしメンテナンスの邪魔にもなるので抜歯を勧められた。
この歳になるまで、歯はまだ1本の欠損がない。しかし思い切ってこれからの人生40年間のことを考えて抜くことにした。

【抜歯経験者の談】
・抜くのに3時間かかった。途中でドクターが交代した。
・3つに粉砕して取り出した。途中で麻酔が切れた。
・町歯医者から口腔外科医を紹介された。
・翌日は仕事を休んだ。
・2日間ほどあごが腫れた。
・3日間ほど流動食で過ごし体重が減った。
・空いた穴に食べたものが入ってものすごく痛かった。

前夜は眠りが浅かった。
朝起きて、自分で口の中の写真を鏡を使って撮った。
昼過ぎに歯医者さんへ。
診察台の上で麻酔をされただけで額と下半身に汗をかいているのがわかった。
「メスを用意しておこう」という声が聞こえて意識が飛びそうになった。
「抜歯を始めます」
「痛かったら手を挙げてください」
何かで歯をつかんでいるようだが麻酔が効いてよくわからない。
若い男の歯科医でかなり力は入っている様子だ。
「抜けそうです」
「抜けました」
「え!?」と私。
ほんの数分間のできごとであった。
痛くもかゆくも、ショックもない。

「上手ですね」と私。
「オガタさんの、日ごろの行いがいいからですよ」
お~、なんとも名医っぽい返しだ。
麻酔の量も絶妙で、昔のようにしばらくはまともにうがいもできないほどの痺れがない。抗生物質と痛み止めの薬をもらって1880円なり。
しばらくはご飯が食べられないからと思い、買っておいたゼリー飲料が無駄になった。

【なかなか丈夫そうな抜いた奥歯。右のマウスは歯が入っていたケース】
子どもの時のように屋根に投げたらまた新しい歯が生えてくると困るので、しばらくケースに入れて持っておこう。

金曜日の夜の雨

2020.5.15(金) 徒然 39

中学生のころから日記を書いている。
書き始めた動機は国語の時間に「日記を書こう」的な学習をしたからではないか。
近年はコクヨノート「Canpus  B 100枚」1冊が1年分だ。
先日、「思い出の写真」をブログにupするためにアルバムを探していたら「大学3~4年 1980~1982 No10」の日記帳が出てきた!

詳しくは此処では書かない(書けない?!)が、夢か映画の中のような日々を過ごしており「俺も元気だったな」と思う。酒があまり飲めない私が6次会とか行っている日もある。思い出せば1年生の時、部室にあった飲み残しの入った「霧島」を持って帰り、夜一人で飲む練習をしたこともあった。

2011(平成23)年1月8日(土) 奥日向神クライミング
10時キャンプ場集合。泗水から1時間で着く。山は雪が積もり早朝ー6度、昼でも2度の日本中寒い一日ながら道端エリアは暖かかった。
全体的に朝は湿っていたが徐々に乾いて登りやすくなった。
「君のために 5.9」をTr.で2回。3回目はRP。
「ルネッサンス 5.10b」はダメ。
「だんだん 5.9」はTr.で。
「いらっしゃいませ 5.8」はフラッシング。
「太郎 5.10c」はTr.で2回ともダメ。
スラブで右足ふくらはぎ、フェースで右腕三頭筋、全体として腹筋を使った。岩は安山岩。参加者はあそ望会長キーボウさん、ボロさん、フジミさん、マスモさん。マスモさんの友人で福岡の若い人2人。

上記は53歳であそ望山岳会との初めての日向神、17年ぶりの外岩クライミングをした時の日記。自分なりにがんばった様子が分かる。

【2011年1月8日の道端スラブ壁の写真】
まだ上部のルートや左のルートがない。

7年後の2018年に「100イレブン」を達成したが、その時「よく登った記録を取っているもんだ」と感心されたが私にとっては記録を残しておくことは普通の事。一緒に行った方、ビレイをしていただいた方も大事な記録と思っている。

日記以外にこの頃よく付けている記録は「毎朝の体重と体温」で、これは手描きの折れ線グラフにしている。60歳をこえると体重の減少がこわい。
今日はヒマワリの種を2種類買ってきて直播(じかまき)とポットを10個。
YouTubeの「あいみょんBest」にどうして「ひかりもの」が入っていないのか!

今日撮ったギンリョウソウの写真を一枚。トリミングなしがえらい。

けっこう外は降っているなあ・・・。

思い出の写真 9 (36歳、クライマーからランナーへ)

2020.5.10(日) 思い出の写真 No9

1994(平成6)年 36歳
庵鹿川の三澤さんは昔からよく語っていた。
「クライマーには3大障壁がある。1つ目は就職。2つ目は結婚。3つ目は子ども」と。
山ばかり登って仕事も恋もしていないような私であったが30歳の時には3人の子どもがいた。

写真のように「トレラン」は時々やったが、この年からクライミングはすっぱりと止め、家族で行けるマラソン大会にでるようになった。

思い出の写真を最後に3枚載せよう。
当時の愛車、三菱デリカと根子岳。

秋、クレッテル・カメラードは盛大に鍋の平で観月会を行っていた。

阿蘇・高岳鷲ヶ峰に集ったクレッテルの仲間。

それから2011(平成23)年、53歳になった私がクライミングの世界に戻ってくるまで17年の歳月を要した。

思い出の写真 8(33~35歳)

2020.5.10(日) 思い出の写真 No8

1991(平成3)年
正月は宮崎市で迎え、2日は日向市の「尾鈴ロードレース」を走り、美々津海岸「権現岬」で登る。その後、庵鹿川に行ってパートナーを見つけて比叡山で登る。そんな正月の過ごし方が何年か続いた。

権現岬は暖かく、若い人が集まっていた。

8月に熊本市内で「ODCクライミングコンペ」が行われた。大きな倉庫でリードのできる設備は珍しかった。午前中仕事があって見学だけ。

秋に金峰山・二の岳ボルダーへ行った。

数年前にこのボルダーを登ろうと思い出かけていくと、30年たって周りの杉林が伸びて場所が分からなくなっていた。

1992(平成4)年
5月には比叡山「ひむかの黒馬」など。

この頃、クレッテルで「電動ドリル」を購入したので大観峰の岩場にフェースルートを拓きに行くようになった。

1993(平成5)年
5月、雌鉾岳(庵ルート Ⅶ A0)を戸高さんと登った。

雌鉾岳頂上にて。

この年は電動ドリルを担いでよく大観峰へ行って、フェースルートを拓いた。

すてきなシングルライフ(5.9)
リアラ(5.10b)
復活の日(5.10b)
青大将(5.10d)
ヒラクチ(5.10a)
マムシの皮はぎ(5.10c)

これは「復活の日」で、「岩と雪」にも掲載してもらった。
エリアは松村さんの応援を得て第Ⅳエリアまで広がった。
我が青春の大観峰はクラックとフェースの両方を楽しめ、阿蘇五岳をバックに登るロケーションは最高であった。しかし、アプローチの悪さは致命的で訪れるクライマーは本当に少なかった。
※2016年4月の「熊本大地震」で大観峰の岩場は登攀不能になった。

思い出の写真 (30~32歳)

2020.5.10(日) 思い出の写真 No7

1988(昭和63)年
前年、宇土に転勤・引っ越しをしたので近場の黒崎海岸で開拓をした。

これはスクワットの体勢から一気に上のホールドを取るルート。
仕事仲間の若者を誘って通った。

6月には松村さんに「筑紫耶馬渓」を案内していただいた。
あえぎのトラバース(5.10a)

夏は松村さんと「庵・鹿川」を拠点にして比叡山南面スラブで開拓を行った。
グランドアップがお決まりの南面スラブにフレンチ式で拓いたのが「スーパーファイナル」である。

このルートは高難度の割にプロテクションがリングボルト(当時は標準)だったので、2018年(30年ぶり)に松村さんとステンレスにリボルトした。

11月3日、文化の日はよく根子岳に行った。写真は縦走して西峰から。

1988(平成元年)
夏には山口の「陶ヶ岳」に行った。
ホワイトハウス(5.11b)を登る松村さん。

松村さんとは行縢山でルート開拓を行った。

行縢山駐車場にテントを張っての焚火。
最高に楽しい時だった。

1990(平成2)年
5月に「第1回九州ロッククライミング大会in比叡」が開催された。

優勝は寺島由彦氏か。ルートの大きさとハングには驚かされた。
私はBクラスで予選落ち。

夏には行縢山・奥壁でのルート開拓が終わった。
「アロマージュ Ⅵ級A0 4P 110m」である。
写真は4P目をトップで開拓中の松村さん。

残念ながらこのあと右から伸びていた「クレッテルルート」に合流してしまった。未発表なので誰も知らないルートで終わった。

思い出の写真 (29歳のころ)

2020.5.10(日) 思い出の写真 No6

1987(昭和62)年
4月、雌鉾岳で1年前に開拓された「四月の風」を登った。

7ピッチ目のリード。
「ライン取りの秀逸さと難度の高さを併せ持った雌鉾岳スラブを代表する好ルート」と「ガイドブック:宮崎の岩場」でも紹介されている。このエリアで一番面白いルートだと思う。

6月、比叡山の鳥居のボルダーで「ボルダリングコンペ」が行われた。
ボルダリングといっても大きい岩はトップロープである。

Bクラスで3位に入賞し、賞品はフレンズだった。

夏はクレッテルの祖母山:奥岳渓谷沢登り合宿に参加。
川上本谷やウラ谷を登った。

宝満山「稚児落としの岩場」は松村・友栗氏と。

秋の大崩山「硯岩 中央ルート」は徳留くんと。
この年、三沢・工藤氏によって拓かれたばかりのルートだった。

暮れに松村・徳留氏と「伊豆・城ケ崎」へ車で行った。
パープルチャイルド(5.11-)はTr.で。

有名な「悟空ハング」に下がる徳留くん。足が長い。

デルトイド(5.11)を登る有名なO夫婦の派手なタイツはお揃いか。

思い出の写真 (27歳~28歳)

2020.5.10(日) 思い出の写真 No5

1985(昭和60)年
2月に阿蘇高岳で赤谷~頂上を3人でめざして遭難騒ぎを起こした。ケガはなかったが下山が夜中になってしまった。小さなミスが重なると大きな事故につながることを学んだ。

夏前に日向神正面壁の八女ルート、鵬翔ルートで人工登攀の練習を積んだ。
8月、「南ア:甲斐駒ケ岳 赤石沢Aフランケ~赤蜘蛛・奥壁左ルンゼ」を登った。

恐竜カンテの人工登攀
山を下りると自衛隊の車両がたくさん集まっていた。その時、初めて「御巣鷹山に全日空機が墜落」した事件を知った。

1986(昭和61)年
この冬も高岳にはよく通った。

ダイレクト尾根の背後には鷲ヶ峰の九州離れした景色が広がる。
そんなある日、仙酔峡からの帰り道に乗っていた車が雪でスリップして谷に突っ込む寸前に横転、一命を取り留める事故に遭った。

夏は奥秩父:小川山に一人で乗り込んだ。

写真はクラックルートのカサブランカ(5.10a)である。
当時の一流クライマーは、夏は小川山、冬は城ケ崎で登っていた。
小川山にはクライミング雑誌に登場する有名人がたくさんいて、もうそれだけで楽しかった。

比叡山ではクレッテルカメラードの「ファイナルスラブ開拓」に携わった。

このころは大観峰でのクラックルート開拓は終わりを迎え、菊鹿町の丸岩で開拓を始めていた。

登っているのは松村さん

年末は「北ア:北鎌尾根~槍ヶ岳」に参加した。

北鎌尾根のP4に達したところで遭難事故が2件発生していた。数日間、天候の回復を待ってヘリコプターに怪我した人をピックアップしてもらったところで時間切れ下山となった。
幾つかの事故を身近に感じ、この後、雪山に行くことはほとんどなくなった。

 

思い出の写真(24~26歳の頃)

2020.5.9(土) 思い出の写真 No4

1982(昭和57)年
大学を卒業した年の秋、社会人山岳会「熊本クレッテル・カメラード」に入会した。
この年、クレッテルは熊本の山岳会としては初めての「ヒマラヤ未踏峰」への遠征を敢行している。
1983(昭和58)年
この年からクレッテルの仲間と「阿蘇北外輪・大観峰の岩場」に行くようになった。

クラックにカム(フレンズ)を使って登り、終了点はリングボルトを2個打って完成という簡単な開拓だったが「一日1本」開拓ができる新しい岩場だった。これからの数年間、私は幸せな時を大観峰の岩場で過ごすことができた。
しかし、比叡山や日向神峡、大分等に行くことはほとんどなくなり、フリークライミングに関しては「井の中の蛙、大海を知らず」状態に陥ってしまった。

憧れだった「北ア:北鎌尾根~槍ヶ岳~滝谷」を登る機会を得た。

ここは北鎌尾根(独標の頭)である。


大キレットを越えて滝谷(ドーム中央稜)でも登った。
その後は単独で八ヶ岳南部を縦走した。

秋には「第38回 群馬国体山岳競技」に選手で参加した。

1チーム(3人)で「登攀・縦走・踏査」の3種目をこなす。ワンゲル部で培った「天気図つけ・屋根型テント立て」の技術も生かされた。国体後は秋枯れの「尾瀬」を堪能した。翌年の「第39回 奈良国体」も参加した。

1984(昭和59)年
冬季は近場の阿蘇高岳鷲ヶ峰「赤谷」へよく行った。

大滝は多くのクライマーで賑わっていた。
鷲ヶ峰の第1キレット付近の斜面でビバーク訓練をして、一夜を明かしたこともある。

八方ヶ岳:穴川の岩場でルート開拓をした。
2ピッチ目からフリーで行けなくなり断念した。
岩場までのアプローチがひどすぎた。

比叡山で「池田功:クライミング講習会」があった。

右のタイツ姿は中山良朗氏である。
「岩雪」の表紙を飾っていた池田氏のクライミングに驚かされた。

クレッテルカメラードでは熊本城の石垣掃除を年に1回行っていた。

このころ熊本県警の山岳救助隊に委嘱された。
12月に初めて「根子岳・地獄谷」での救助活動に参加した。
徹夜での救助活動は貴重な体験となった。