思い出の写真(大学4年 山岳部へ)

2020.5.5(火) 思い出の写真 No3

だいたい大学の部活動は4年生になると引退して後輩に後を託す。ワンゲル部の春合宿に参加することなく、暇だった私は一人で祖母山のウルシワ谷を登り、大障子の縦走などをやっていた。
そこへ山岳部のT君が「比叡山で登りませんか」と声をかけてきた。
2年生の頃、山岳部に連れられて「双石山ルンゼルート」を登り大きな感動を覚えていた私はすぐ話に乗った。双石山の「象の墓場」で簡単な練習をした後、いざ、比叡山へ向かった。
一回目は比叡山南面の定番「第1スラブと第2スラブ」
4月にもう一回行って、「ニードル左岩稜とTAカンテ」

これはニードルの頭から懸垂下降したところ。
シューズは運動靴、下降器はなく「肩がらみ懸垂」、ヘルメットはクライミング用か?
この後、私はワンゲル部に籍を残したまま山岳部に入部した。
この頃は山岳部も全部で10人近くに増えていた。

夏前に双石山で50㎏ボッカ訓練(T君と私以外はバタバタと倒れて行った!)を経て、夏合宿は「剣沢定着~槍・穂高縦走 17日間」だった。

これは剣沢雪渓での「滑落停止訓練」の様子。
八ツ峯や源次郎尾根を登り、初めて「シャリバテ」の経験もした。
最後は涸沢でみんなと別れ、私は単独でジャンダルムを越え、西穂高の縦走で締めくくった。

休みの日は双石山(ぼろいしやま)で練習した。

写真はアブミを使った人工登攀の練習。
「象の墓場」と呼ばれるこの岩場は面白い所だった。

秋には大崩山の広タキスラブや小積ダキ南壁(人工ルート)へ行った。

広タキスラブでリード中、この後5mほど滑落した。
こんなスラブもまだ底の薄い運動靴で登っていた。この落ちたシーンを後ろにいた九大山岳部のK1さんに見られ、今でも誰彼に「広タキですべった」と吹聴するので困っている。彼はクライミングシューズだったのではないか?

冬前に40㎏のアイゼンボッカ訓練。
冬合宿は「北ア:横尾尾根から槍ヶ岳」だった。

中央に槍ヶ岳が見える。
合宿後は単独で中央アルプスに向かい、宝剣~駒ヶ岳を歩いた。
この時初めて雪洞での単独ビバークを体験した。
合宿後の単独行動はなおらない。

大学最後の春合宿は「北ア:東鎌尾根~槍ヶ岳」だった。

これは西岳ヒュッテの冬季小屋を掘り出しているところ。
2時間かけて掘ったのに、中は極寒だった。

快晴の槍ヶ岳山頂。(右端が私)

この後、T君と私は二人で大キレットを越え、北穂高岳山頂あたりでビバークして涸沢岳から新穂高に下った。稜線歩きも寝不足でフラフラして、これは今思ってもかなり危なかった山行である。
T君はその後、フリークライマーから渓流釣り師、そしてマラソンランナーとなった。福岡国際マラソンでも活躍し、川内優輝選手が出るまでは「日本一速い公務員ランナー」だったのではないか。

これは大学卒業式の時の写真。

靴は「ローバーチベッタ:重登山靴」、ズボンは5年はいてつぎはぎだらけになったニッカーボッカー、シャツはワンゲル部のユニフォーム、そして首に巻いた赤いバンダナが泣ける。(精一杯のおしゃれか?)
私にとっては大学の卒業というより、ワンゲル部と山岳部の卒業だった。
翌日の宮崎日日新聞には「山帰りの卒業生もいた」と紹介された。

思い出の写真 (大学1~3年)

2020.5.4(月) 思い出の写真 No2

高校~浪人中に九州の主な山は登った。
九重山、霧島連山、祖母・傾、市房山、根子岳等に登り一端の「単独行者」の自信を持っていた。しかし、近道と思った岩場で落ちそうになったり雪の大崩山でビバークしたりと危ない経験もして単独の限界を感じていた。また、小説「単独行」や北杜夫の「ドクトルマンボウ青春記」を読んで北アルプスに行く夢を持っていた。

1978(昭和53)年4月、宮崎大学教育学部入学。
ちょっと怖い「山岳部」を覗くと暗い部屋に部員は2~3名だった。
ちょっとチャラい「ワンダーフォーゲル部」は生協の前でたくさんの男女が新人勧誘のダンスを踊っていた。そして「夏は北アルプスに行きますよ~」という先輩女子の言葉を聞いて即ワンゲル部に入部した。
ここから私の楽しすぎる学生生活は始まった。
だいたいチャラいと思われたワンゲル部だが、普段はどんな活動をしているのだろうか。
ずばり、「トレーニング」である。
部室のある農学部から平和台公園まで駆け上がり、腹筋、背筋、腕立て、スクワット、階段ダッシュなどなど。初めての部活の翌日は起き上がれないほどの筋肉痛に襲われた。おかげで20数名いた新人はあっという間に半分に減った。
夏や冬の合宿前は鰐塚山で40㎏のボッカトレーニングも行った。
大学の1年間の充実度は社会人になってからの10年間分に匹敵するほどだ。

学生時代の「思い出の写真」はたくさんありすぎて選ぶのに困った。

南アルプスでの合宿(大学1年)
特大キスリングの上に鎮座しているのは「羽釜」だ。
南アルプス南部の縦走~高ボッチ高原~後立山連峰縦走、最後は一人で憧れの徳本峠から上高地へ入った。


1年の春休みには台湾一周の一人旅。
みんな本当に親日的で、現地で知り合った方の家に何回も泊めていただいた。
これもワンゲル活動の一環。


北アルプス:槍・穂高縦走(大学2年)
撮影場所は云わずと知れた大キレットの手前。この山行は初のリーダーを務め、「お山の大将」的な一番のお気に入りの写真だ。
この夏は、南アルプス北部縦走~槍・穂高縦走、最後は一人で青木ヶ原樹海から富士山頂を目指したが悪天候で断念、富士急ハイランドに転進した。


九重:大船山(大学3年)
「九州合同ワンデリング」という九州中の各大学ワンダーフォーゲル部員が一堂に集まる催し物がある。筑紫女学院、尚絅短大など女子だけの部もあり心がときめいた。(後列左から4人目が私) 夜はテントで山の歌を歌い、集いのゲームをした。ゲームに負けるとロウソクのススを顔に塗られ、朝になるとみんな真っ黒の顔でテントから這い出してきた。


北海道:十勝・大雪縦走 (大学3年)
夏合宿を北ア:針の木大雪渓・槍縦走で行い、その後美ヶ原に部員全員集合、メンバーを組み替えて北海道にフェリーで渡り、最後は一人で知床:羅臼岳にも登った。楽しい1ヶ月だった。

冬山は宮大ワンゲル部としてはまだ黎明期であり、四国:石鎚山(1年)、木曽:御嶽山(2年)、南ア:鳳凰三山(3年)と徐々にレベルアップしていった。

思い出の写真(十代の頃)

2020.5.3(日) 思い出の写真 No1

初めての登山は中学生の時。
小学校時代の同級生・担任の先生と鞍岳に登った。
高校生になり、卓球部を辞めた後は時々地元の鞍岳や八方ヶ岳に一人で登った。
高校2年生の時、父が中古のカメラ(ヤシカ:エレクトロ35)をもらってきて、私にくれた。
それ以来、カメラは私の山行に欠かせないものになった。

鞍岳山頂にて(高校2年) モノクロ写真が泣かせる。
鞍岳は我が家の窓からも望める故郷の山。


九重山:白口岳山頂(高校2年)
なんと自転車で牧ノ戸峠まで行った。


熊本と大分の県境:兵戸峠(浪人中)
自転車で万年山をめざす2泊3日の山旅。


大分県:万年山山頂 後ろは九重連山
靴はキャラバンシューズ。ズボンは父のスラックスを改良した私の手縫いニッカーボッカー。


九州横断道路:三股山の近くにて
キャリーボーンを背負い単車に乗って、由布岳と鶴見岳に登った。


祖母・傾山の縦走(2泊3日)
一人で傾山の避難小屋に泊まるのはちょっと怖かった。

当時の愛用ガイドブックはこれ。

しんつくし山岳会:立石敏雄著「九州の山」である。
表紙裏にある高度別山の絵を登るたびに塗っていくのが楽しみだった。
本がきれいなのは2冊目だから。
下は同じしんつくし山岳会が出した「写真で見る 九州の山」3500部限定本。