この頃はクライミングやボルダリングを楽しむ人が増えているようだ。
しかし、組織立った「山岳会」に入っている人は少ない。
その原因や考察は置いといて、熊本にはそもそもどんな山岳会があって、それは今もあるのだろうか。
先日、熊本県立図書館に行く用事があり、帰りに郷土資料のコーナーを覗くと「九州登山史 松尾良彦著 福岡登高会編」という本が目に留まった。
内容は国の内外を問わず、九州人の登山記録が網羅されている。ヒマラヤや中国の高峰に挑んだり、比叡山や鉾岳にルートを拓く九州人の熱い心意気が伝わってくる記録だ。
また、各山岳会の発足年も記載されていて興味を引いた。「?」マークは私の記憶の中にあり、発足年が記載されていない山岳会名である。
本を開いて思わず探してみたのは2つの遭難記事である。
一つは、1970年の福大ワンダーフォーゲル同好会が日高山脈でヒグマに襲われ3人が死亡した事故があり「カムエクの教訓」と呼ばれるものである。
もう一つは1963(昭和38)年1月、阿蘇高岳で行方不明になった当時熊大生の奥村健之助の記録である。
健之助さんの遺体は懸命の捜索にも関わらずなかなか発見されなかった。
2年後、高岳登山道から大きく外れたヤカタ川上流部で遺体(疲労凍死)は偶然発見された。
健之助さんには当時女子高校生だった妹がいた。それから半世紀が過ぎ、高齢にもなった彼女には「一生に一度でいいから高岳にある兄の墓標で供養がしたい」という願いがあった。彼女の夫は当時「さんすい山の会」に入っており、彼女の願いを聞いた山の会の仲間が立ち上がり、まずは墓標探しから始まった。当時の熊日新聞記事と発見現場の写真が手がかりであったが、なにせ50年以上も前の出来事で、墓標探しは困難を極めたらしい。
しかし「さんすい山の会」の5~6回にも及ぶ熱心な捜索の末に墓標とされるケルンは遂に発見されたのである。
2009年3月、私は彼女の夫(実は私の義父)とともに、その場所に彼女が行けるかどうかを確かめる山行に付き添った。そこは登山道から約1時間も離れた高岳の荒れた斜面に位置しており、結果として彼女の願いは無理だと判断された。しかし、50年の時を経て奥村健之助さんの墓標(ケルン)に花を手向けることが出来たことは大変意義深い山行となった。
【写真は高岳南側斜面にある墓標、後方は根子岳】
遭難記事とともに山岳会名の中に「熊本さんすい山の会」を見て上記のことを思い出した。また、「熊本クレッテル・カメラード」にも私は永く所属していたのでいろいろな思い出がある。
それぞれの山岳会にはそれぞれの歴史とドラマと絆があるだろう。大きな記録を残したところもあればいつのまにか消えていったところもある。
私が現在所属している「あそ望山岳会」は発足10年目の新参者だ。縦走・ハイク・クライミング・沢登り・冬山・トレラン等々なんでもござれの「器用貧乏」で大成しそうなジャンルは今のところ見当たらないが、熊本の数少ない山岳会として永く存続していく可能性は高いと思う。